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2004.04.08
靖国参拝違憲判決と祖先を敬う日本人の心
日本の裁判はこれでいいのか?
小泉首相の靖国神社参拝が違憲とされた。
靖国神社というところは、明治維新以来の我が国の歴史において、心ならずも家族を残し国のために命を捧げられた方々に対して、心から追悼を行う場所だと私は思っている。
また今日の日本の平和と繁栄は多くの戦没者の尊い犠牲の上にあることを考えると、平和を守り二度と悲惨な戦争を起こしてはならないと不戦の誓いをする場所だとも思っている。
日本国のために尊い犠牲となった方々に対する追悼の対象として、長きにわたって多くの国民の間で中心的な施設となっている靖国神社に参拝することはごく自然なことではないだろうか。
参拝を問題視する意見の最も典型的なものは、日本国憲法第20条3項「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」という政教分離の原則に抵触するか否かの解釈であるが、私に言わせれば馬鹿馬鹿しいことこの上ない。
公用車を使った、閣僚が一緒に行った、内閣総理大臣と記帳したと議論する様は本質から大きく外れている。
人は、愛する家族を亡くしたとき、その人をいつも身近に感じていたいと思うものなのだ。特に日本人にはごく自然な感情といえるだろう。
亡くなった祖先の霊は、この世にとどまって、いつでも子孫を見守ってくれているという、日本の伝統的な考え方は、今も生き続けている。
こうした伝統的な祖先を敬う心が土台にあるから、人として恥ずべき行いをしてしまったとき日本人は「ご先祖様に顔向けできない」と言うわけだ。
亡くなった人をまつるということは、まさに生きているときと同じように接し続けることに他ならない、これは日本人の心の拠り所だ。
そして、何代も前の祖先は顔も見たことがないけれど、祖先がいなければ、私たちは生まれていない。生命のつながりの大切さを感じさせてくれる大切な存在と言えるのだ。
このような日本人の極めて自然な心を無視する判決を下す裁判所とは一体何者なのだろうか?福岡地裁という下級審とは言え「違憲」とはっきり言い切る裁判官は全く人の心が解っていない。
私の大学関係の裁判や田中真紀子氏の長女の裁判にも見られたことだが、人には祖先を敬う心同様、学問の自由や個人のプライバシー等どうしても守りたいものがある。裁判所の裁判官は人から大切なものを奪い去る所業を繰り返しているのではないか?法の判断が人間のエゴや悪質な商業主義の味方では人は人として尊厳をもって生きることができない。
社会経験が豊かとは到底言えない裁判官が下す判決は、一般常識から大きく外れていることが少なくない。社会には白とも黒ともいえないグレーなものがたくさん存在することを自覚していなければならないのだ。
裁判員制度の準備が進んでいるが、一般常識にかなった判断がなされ、裁判制度に対する社会の信頼が確保されることを期待している。
最後に、世界中に祖先を敬うことをしない国民や民族は存在しないだろう。日本人の純粋な祖先を敬うこころを示せば近隣各国の誤解は解けると私は信じている。
2004年4月8日 ザ・イトヤマタワーにて 糸山 英太郎
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