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2004.09.02
メダルにこだわりすぎる
選手と国民に話そう
金メダル16個は喜ばしいことだ。
しかしスポーツの原点に戻って考えればあまりにもこだわりすぎであろう。
銅は金と同じと書くじゃないか、メダルの色に血道を上げる姿は選手でも国民でも行き過ぎれば醜い。
小泉首相は金メダリストの人気に便乗するべく栄誉賞の授与に意欲マンマンだったがメダルラッシュの結果、絞り込みが難しくなり、断念に追い込まれる皮肉な結果となった。
小泉首相のスポーツに対する下衆な考えは今に始まったことではないので驚かないが、かつて選手達がスポーツに対して持っていた純粋な気持ちが失われていくことが悲しい。
世界で「スポーツは文化だ」といって、異論をはさむ人はいないだろう。それは世界中の人々がスポーツに大きな社会的価値を認めているからなのだ。
日本にスポーツが根付いて数十年、これからも無限に輩出されるであろうスポーツ選手にフェアプレーの精神やスポーツマンシップが欠落していれば、社会的価値ではなく、選手自身の個人的価値にとどまり、到底文化とはいえないものになってしまう。
勝利のため、最後まで全力を尽くすことと勝つために何でもやることは全く違う。審判にとられないファールを美技として多用するサッカー選手、タッチしたのに審判にノータッチのアピールをするバレーボール選手などを見ていると情けなくなる。一流の選手が対戦相手や、審判に友情と尊敬をもって接するから感動があるのだ。
そして勝敗が決した時ほどスポーツマンシップが問われる時は無い。
「勝利のときに慎みを忘れず、また敗北も誇りある態度で受け入れる」選手こそ一流なのだ。
先般このHPで国民のオリンピック熱狂に苦言を呈したが、改めて本当にスポーツを愛する心とは何か?を伝えたい。
国際試合の中でも特にオリンピックは、国と国との戦争かと思うほど国民は熱くなっている。勝てば相手国選手のことなどかまわず歓喜し、負ければ自国選手・相手国選手の両方を罵倒する。
日本の小学校から始まる学校体育のプログラムは、早く走れ、高く飛べ、皆に合わせて手足を動かせという指導は何度もくりかえされる。
しかしルールの遵守、フェアプレー、勝敗を受け入れる心、相手を思いやる気持ちなど、人間の尊厳に繋がる精神的な徳目を体育の授業で授かった記憶はない。
これらの徳目を総称してスポーツマンシップと呼んでいるのだが日本の教育では大きく欠落しているのだ。いつのまにか勝って騒ぐのがスポーツになってしまった。
スポーツを愛する心とは自らがスポーツマンシップを身につけることに他ならないのだ。
国際オリンピック委員会(IOC)の創設者ピエール・ド・クーベルタン卿の言葉に「スポーツを実践することは、真心と思いやり、なによりも“人間尊重の精神”を養うことであり、そのためには、“フェアプレー”の価値を高めなければならない」とある。
私はスポーツが真の文化となる日を待っている
2004年9月2日 ザ・イトヤマタワーにて 糸山 英太郎
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